「最後の会話、最初の言葉」

ここに決めたのは、2人にとって思い出の場所だったからだけではない。

私はここから見る夕日が好きだった。たぶん彼よりも。

3年越しで付きあった竜也とは結婚するつもりでいた。

妊娠が発覚して、彼に告白しようと思っていた矢先に、他に女がいることを告げられた。

私よりも6つ年上の30歳の彼の上司だった。

 

私たちは話し合った。

彼女は微笑みながら「あなたはまだ若いから」と、ぼろぼろになりながら毎日泣きはらしていた私よりも数段つやのある顔で

勝ち誇ったように言い放った。

彼女も妊娠していて、しかも6ヶ月になっていた。

竜也と子どもと3人で幸せになるはずの私は1人ぼっちになった。

 

このビルの屋上の夕日を見ながら死ねるならそれが今の自分にとっての一番の幸せのような気がした。

階段を登りきった。夕方の風が私を包み込む。落ちる瞬間というのは案外心地よいものかもしれない。

フェンスに近寄ると、あろうことか先客がフェンスの外側で今にも飛び降りんばかりのいきおいで、地面を睨んでいた。

 

彼女を引き止めたのは決して彼女に死んで欲しくなかったからではない。

ただ「私の場所」を先に汚されたくなかっただけだった。

しかし彼女は一人ぼっちではなかった。

私の声に驚いて振り向いた胸には赤んぼうがいたのだった。

 

夕闇につつまれたビルの屋上でこの日死ぬはずだった女が2人。

人生はままならないものだということは「女と子ども」に学んだつもりだった。

でも最後の日まで「女と子ども」に邪魔されるなんて、と情けなく思う。

 

彼女は妊娠と同時に男に逃げられた、駆け落ち同然に飛び出して一緒になった男だと言う。

その男の居場所は今でもわからない。誰にも相談できずにこの子を産んだが育てきれる自信はない。

「良く似た話を知っている」と私は答える。自分のことだとは言わなかった。

彼女は私に話した事で明らかに安心している。それに彼女は私が死ぬ気でここに来たことは知らない。

 

その時だった、かすれた音がした。

最初は何の音だか、私も彼女も気づかなかった。

 

「ま」そして「ま、んま」かすれた音は今度はしっかりとした人間の声になった。

 

「初めて」と彼女が言う。

「この子の言葉。初めて聞いた」瞬間、彼女の目に生きる希望が見えたのを私は見逃さなかった。

 

私は今日は死ねない。

明日はどうだろう。

 

赤ん坊は、夕日を全身に浴びて力を得たようにさっきよりも数段大きな声で何かを叫び、すううっと安らかな眠りについた。

 

 

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