2月5日生まれ
東京渋谷で生まれる。世田谷で育つ。
両親、祖父母、3つ下の弟との6人家族。長女。
1歳~幼稚園入園まで
両親が共働きのため、祖父母と一緒のことが多かった。
顔立ちが男の子のようなので赤い服ばかり着せられる(現在赤が一番好きなのはこれが原因か?)
家の事情で親戚に預けられる時期があった。
強烈な幼児体験があり、子どもながらに人生の「ままならなさ」を知る。
一人で絵をかいたり空想するのが好きな子ども
自由画帳にさまざまな絵を書いていた。自由画帳には親にも見せれないような絵があった。
幼稚園時代
注射が嫌で園を自ら脱走!?したり、退園経験するという、やんちゃぶりもあったが、幼稚園でやっていることすべてが楽しめる幼児期でもあった。造形活動やお遊戯に人一倍熱心で、練習時には必ず一番先に駆け足で舞台に上がるような積極性がある子ども。とにかく「演じる・歌う」が大好き。
盆踊りが大好き。歌を歌うことも覚える。しかし一番好きなことは妄想と絵を書くこと。
工作の時間は、常に「人と違うものを造る」ということに没頭。
先生の言うように人と同じものを作らなかった。しかしその様子をほめてくれた担任のことを信用するようになる。(幼児教育を目指したのはこの経験からである)
ピアノを始める。書道を始める。友達と一晩空地で段ボールで夜を過ごそうという計画をするような冒険心もあった。(すぐに連れ帰られる)
日曜日の夜になると、家のオーディオ(レコード)でクラシックやラテンの音楽を一人で聴くのが好きな
夜を過ごす。お気に入りは「ベサメムーチョ」と「クマンバチの飛行」
小学校低学年時代
算数が苦手。図工が得意であった。
このころから少しずつ漫画の世界に興味を持つようになる。
ピンクレディーなども好きだったがそこまでハマったというほどでもなく
どちらかというと図工、絵画、漫画が好きであった。
運動神経が悪く、体育が苦手。音楽は縦笛が得意だった。
高学年の生徒にいじめられる、その理由が「声がハスキー」「かすれ声」
以後、自分の声に対し自信を無くす。
小学校高学年時代
小学校4年生からいきなり足が速くなりクラス1,2番に。
ここから中学3年までずっとリレーの選手であった。
漫画を描き始め、毎日同級生に連載物を見せ始める。
小学校5年生で、演劇にめざめ、踊りの振り付けを考えて
発表し、校長室に呼ばれ校長自らほめていただき自信を持った。
しかし将来の夢は考古学を勉強すること。
中学生時代
バレーボール部の部長をやりながら
演劇部にも所属。
合唱コンクールのピアノを担当しながら「なぜ私にはソプラノが歌えないのか?」と思っていた。
このころいじめを経験する。(自分がされ、またされて学校を辞めた子を間近で見たりする)
この経験があとあとの人生に影響を与える。(孤独に強くなる)
初恋を経験。ういういしいものだったががすぐに終了。
中学校2年のころより、誰に影響受けたわけでもないが「歌手」に憧れるようになった。
しかしどう考えても自分には無理と思っていた。
(小学校からこの時期まで非常にハスキーボイスで、高音がでなかったためである。)
高校時代(日大鶴ヶ丘高等学校普通科)
弓道部所属、2段まで取得する。
創作ダンスの振り付け構成で学年で選ばれる。
ダンスに興味を持つ、漫画を描き続けることはあきらめる。
世界史が好きで特にローマ時代に憧れる、数学が苦手。
同じクラスに一日いられない生徒で、休み時間のたびに階の違う友人のところに
常に顔をだし、徘徊していた。廊下で話すのが大好き。
マドンナが好きで授業が終わったら新宿のディスコに行くような面もあった。
初デートを体験。しかし、プレゼントに何がほしいを問われ
「パンチングボール」と答えて相手に驚かれる。(ボクシングが好きだったためか?)
廊下でディスコステップの練習を欠かさない日々 ←
俳句・短歌で賞をとったり、美術関連で高い評価をうけることが
あった。弓道推薦を断り、幼児教育に進む。
短大時代(文京女子短期大学保育科)
埼玉県の寮に住み、日本各地からくる寮生と知り合い、
休みのときは九州に一人旅を経験。
この時の「合同生活」があとあとの人生に影響を及ぼす。
(いろんな人と出会うのが好きになる)
東洋大学アメリカンフットボールチーム「グリフィンズ」のマネージャーを務めた。
まじめにスコアを書けるようになるまで努力する。
この時代は学業に専念しており、遊びという遊びをほとんど経験せずに
短大を終える(真面目でした)。
幼稚園教諭時代
20歳~24歳まで4年間を過ごす。
37名の園児をたった一人で見るという重圧はすさまじく
常に声が枯れていた。
このころは歌うということをほとんどしていない。
22歳で深夜番組でZOOを知り、ニュージャックスイングを踊りたいと決意。
渋谷のスタジオに通い始めダンスにはまっていく。
ダンス修業時代
24歳で幼稚園を辞め初めてのニューヨークへ
海外のレベルの凄さに圧倒されつつも、前向きな性格は相変わらずで
日々、ブロードウェーでミュージカルを格安で見るコツを覚える。
ラティーノやアメリカ人の友人と交流。
滞在中に足を怪我し踊れなくなってもあきらめず足を引きずりスタジオに通い振り付けを熱心に研究。
以後、7度NYに通い、さまざまなレッスンをかじり受ける。
26歳から専門学校でダンスを教え始める。
☆ここまでの幼児期からのダンス人生の詳しいエッセイが存在しています。お時間がある方は是非こちらをどうぞ
リトミック講師時代
専門学校滞在中より、幼稚園教諭とダンスの能力を認められてすぐにリトミックの仕事を得る。
週に50人以上を教えはじめて完全生業にしつつ、そのまま専門学校に講師として残り
ダンスや振り付けを学生に指導する。
多くの幼児~小学生にダンスを指導し、舞台に出演させる。27歳より、
自分のチーム(プレパレーション)を結成し、振り付け、舞台出演に精を出し始める。
また在学中にミュージカルオーディションに合格し
生まれて初めてのミュージカルに出演する。
歌って踊ることの楽しさを知る。
この時、初めて音楽監督に声の良さと発音の確かさをほめられる。
以後、世田谷区民劇団に所属し下北沢本多劇場に3年連続で出演する。
<劇団鳥獣戯画>
「真夏の夜の夢」(山神役=妖怪王)
「好色5人女」(お万=少年侍に化けて寺に忍び込んだ5人女の主役の一人)
好色5人女の舞台で、「歌手」の役をオーロラ輝子ばりに務めあげ、本番をやぐらの上で
歌い切った後に照明さんから「君は、歌手になるべきだ」という力強い言葉をいただき、
生まれて初めて歌手になることを意識する。
28歳より一人暮らしを開始する。
ダンス講師時代
30歳で初めてのキューバ上陸
一人旅の海外も初めてで、さまざまな体験をする。
このチャレンジャーな人生経験が後々の性格に影響を及ぼす。
「どんな場所でも海外では自己主張を忘れない」ことを学ぶ。
キューバには合計で10回滞在し、キューバダンスのほぼすべてを
習得。以後キューバンダンスインストラクターとして生計を立てる。
週にリトミックやダンスレッスンの回数が37回というすさまじい仕事量を
こなしながら、ダンスチームを3つ運営、また、サルサの歌手活動も始める。
まさに、寝る時間のない日々。
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サルサ歌手時代
Las chicas Lindisimasという名前のバンドでコーラスからサルサ・メレンゲを歌い始める。
そのうち別の2つのサルサ、ラテンジャズバンドでもリードヴォーカルとして歌い始める。
踊ることよりやはり歌が好きだと再認識していく。全国でライブ活動する。
ファドに出会う
2007年。
嵐に出会ったように偶然ファドに出会う。
人生の中で
どのような出会いにも勝る衝撃があり、
私は必ずこの歌を歌うようになると確信する。
ポルトガル上陸
2008年。
10回のキューバでたまったマイルを使い、
単独リスボンへ。
初日の夜からバイロアルトの「Tasca do Chico」でファドを歌うことにチャレンジ。
2週間毎夜各地で歌う。
アルファマ、バイロアルト、を日々歩き回り、ギタリストと知り合いながら歌える店を
紹介してもらっていた。
2009年。
2度目のリスボンでは多くのポルトガル人から笑われたり、
出ていくといやな顔をされることを経験し、
やはり日本人だとだめなのか、というショックを受ける。
しかし思わぬ出来事から、現地のファドの内部に入り込み
歌唱を受け入れられる経験もする。
この時、自分に勇気をくれた女性歌手の存在感、歌唱力、を
励みにしていこうと決意。(その歌手は翌年死去)
またこの年にオファイアのレニータジェンティルの歌唱を初体験。
ファドの持つ力強さと存在感に、圧倒的に感動を受ける。
「目標はレニータジェンティル」というものすごい最高点を目指すようになる(!?)
☆ここまでのファド人生の詳しいエッセイがあります。お時間のある方はこちらをどうぞ
つづく
初めまして!ファド歌手の
MACHAKO(マチャコ)です。ファドとの出会いは2007年。そこからたった一人での現地リスボン修行が始まったのです。ただひたすらに「ファドを歌いたい」という情熱に突き動かされて・・・続きを読む